当社の歴史
社会の歴史
1917 年
社会の動き-
1917年鉞次郎 15歳
4月 岸田鉄店へ入店
特殊鋼問屋で働き始め、
株式会社豊田自動織機との付き合いが始まる兄の勤め先に入店する予定が立ち消えとなり、知り合いの梅田せつの口利きにより、岸田鉄店へ入店する。新規販路開拓のため出身地の名古屋を任され、豊田式織機株式会社に営業。売り込みに成功し、かなりの量の取引が始まる。
-
1921年
アメリカにて T型フォードが生産累計500万台突破
-
1922年鉞次郎 20歳
個人創業
岸田鉄店の主人が病に倒れ、
のれんを引き継ぐ形で独立する当時、普通鋼は競争が激しく、参入する面白みを感じなかったため、特殊鋼専門として力を入れることに決める。トヨタを筆頭にした地盤を頼りに、規格材の輸入に注力し、一つひとつ足を運んでは、特殊鋼の販路を開拓していく。
-
1925年
アメリカにて クライスラー社設立
-
1926年
株式会社豊田自動織機製作所設立
1924年に創業者の豊田佐吉が発明・完成させた「自動織機」を製造・販売することを目的とする。
-
1926年鉞次郎 24歳
4月 ”合名会社淺井商店”設立
この頃から主要取引先である株式会社神戸製鋼所との取引を開始資本金1万円の合名会社淺井商店として大阪にて発足。翌年には株式会社住友銀行立売堀支店に口座を開設
ドイツからの輸入鋼材や株式会社神戸製鋼所、日本鋼管株式会社などの国内メーカーの鋼材の販売を行う。この頃、国内の鋼材はほとんど無規格品だった。
-
1929年
世界恐慌が始まる
-
1933年 9月
株式会社豊田自動織機製作所(自動車部)誕生
現:株式会社豊田自動織機の定款に自動車関連の業務が加えられる。
-
1933年鉞次郎 31歳
淺井式鋼材試験法を開発
炭素含有量の指定、品質保証、平角鋼はシャープエッジとし、品質上の取引条件を定め、これを独自の材料検査法として実施した。品質条件をクリアしたものに対して、「SOFT」の刻印のメタルタッグをつけ、両端に青ペンキを塗って納入し、得意先の信用を勝ち得た。
-
1935年 11月
株式会社豊田自動織機製作所 G1型トラック発表会
-
1935年鉞次郎 33歳
日本鋼管株式会社の主力問屋として活躍する
国内で規格鋼の販売に注力するほか、イリス商会・独乙製鋼(商社)と取引をし、ドイツBochmer VereinやThyssenコンツェルン傘下の鉄鋼メーカーの特殊鋼・中間鋼の規格品の輸入販売も行う。
-
1937年 8月
トヨタ自動車工業株式会社設立
株式会社豊田自動織機製作所の一部門であった自動車部門が独立し、分離発足。当社は、株式会社豊田自動織機製作所に引き続き、この新会社に対してもフレーム用鋼板・高級仕上鋼板を創立当初より納入する。
-
1939年鉞次郎 37歳
「中間鋼棒鋼指定問屋」に指定される
大阪および名古屋の地区別中間鋼配給会員になり、統制下に置かれることとなる。(商社)と取引をし、ドイツBochmer VereinやThyssenコンツェルン傘下の鉄鋼メーカーの特殊鋼・中間鋼の規格品の輸入販売も行う。
-
1939年 10月
価格統制令が施行され、切符配給制度が開始する
1939年12月に東京、大阪、名古屋、八幡の4地区に「中間鋼配給会」が設立。全国で59の中間鋼棒鋼指定問屋が指定される。
-
1943年鉞次郎 41歳
鉞次郎がトヨタ自動車工業株式会社より嘱託を委嘱される
トヨタ自動車工業株式会社への資材の供給者という立場で主要な地位を占め、嘱託を依頼される。トヨタ本社工場の建設時には、鉞次郎自ら長靴をはいて整地作業の手伝いにまで出向いていったというエピソードが残っている。
1944 年
-
1944年 12月
「未稼働物資譲渡命令ニ関スル件通牒」
近畿軍需管理部の「未稼働物資譲渡命令」に従い、船舶用鎖鋼77トンを納める。
-
1948年
商工省に「青鋼会」のメンバー連名で
陳情書や要望書を提出配給制度に対処し、鋼材を必要量確保するため、紡織機メーカーの「鋼材の優先配当、神鋼材の指定」に関する「商工省への嘆願書」の作成に尽力。3度に渡り提出し、神鋼・紡織機メーカーに貢献する。
-
1949年 1月
トヨタ自動車工業株式会社が戦後最大の経営危機に陥る
当社は私財を投げ打つ覚悟でトヨタ自動車工業株式会社への納入を続け、戦後の自動車産業の復興とトヨタ自動車工業株式会社を支える。その功を称え、トヨタ自動車工業株式会社より感謝状を贈られる。「創業の頭初から終始一貫して発展と斯業の興隆に寄与して来られました …貴社の御功績に對し感謝の意を彰はす」
-
1958年鉞次郎 56歳
特殊鋼ならいつでも何でも揃える
”特殊鋼のデパート”へ~ウエアハウス・システムの導入~
大阪市大正区三軒家町に9614㎡の土地を購入し、倉庫を建設。自社倉庫に良質な特殊鋼を常に在庫、取引先の要望に応じて”必要なときに・必要なものを・必要なだけ”指定場所へ納入する「ジャスト・イン・タイム」方式を確立。
-
1958年
岩戸景気が始まる
-
1960年
資本金を1億円に増資
株式会社神戸製鋼所・株式会社住友銀行が大株主となる。
1962 年
-
1962年鉞次郎 60歳
社名を「浅井産業株式会社」に改称
社名改称と同時に大阪駅玄関口の新築となった新阪急ビルへ本社を移転する。社員数は、数年前の20名より大幅に増加し、100名を超えるまでに成長。将来「どのような業種にも参入できる」との期待を込めて「浅井産業」の名称を採用した。
-
1962年
2拠点目の東京サービスセンターを建設
全国規模でのサービス体制を構築する
東京サービスセンターの建設により、関東地区においても充実した材料供給体制を整える。”必要なときに・必要なものを・必要なだけ”材料を提供できるようになった。
-
1964年
東京オリンピック 開催
-
1964年 4月
日本が正式にOECDに加盟
日本は、IMF8条国に移行も実現し、開放経済体制に入る。日本の粗鋼生産量は3,979万トンになり、西ドイツを抜きアメリカ、ソ連に次いで世界第3位となる。
-
1964年鉞次郎62歳
運輸省より倉庫業の認可を受ける
倉庫業法に基づき、倉庫業の認可を受け、東西両サービスセンターを営業倉庫として広く活用し始める。
-
1967年鉞次郎65歳
トヨタ自動車工業株式会社の安定株主へ
トヨタ自動車工業株式会社の依頼により、安定株主として2万株を購入。その後、浅井産業とトヨタ自動車が互いに株式を持ち合う仲となり、企業同士の結びつきが更に強化された。
-
1967年
トヨタ2000GT発表
-
1968年鉞次郎66歳
鉞次郎が退任し、息子の睦也社長就任
-
1971年鉞次郎69歳
3拠点目の衣浦サービスセンターが完成
愛知県に物流拠点である衣浦サービスセンターが完成する。当時は、クレーンを4基備えた施設で、在庫能力は1万トン。名古屋の客先に向けて「いつでも・どこへでも・必要なだけ」要望に応じて素早く納入する体制が整った。
株式会社神戸製鋼所の外島社長と(昭和37年2月)
-
1972年
トヨタ自動車工業株式会社の自動車生産累計が
1000万台を達成するトヨタ自動車工業株式会社がアメリカで初めて輸入乗車販売第1位となるなど、名実ともに国内外でブランドを築き始める
-
1973年 4月
鉞次郎が大阪市中之島公園へ「緑の賛歌」を寄贈
彫刻家 本郷新氏の代表作のひとつで、高さ12.5mのブロンズ像。鉞次郎の"大阪の町をうるおいのある町に"という思いを表しており、公園の緑と調和するようなデザインで、人々の憩いのシンボルとして今なお公園に設置されている。
1975 年
-
1975年鉞次郎73歳
非鉄金属業界へ参入し、貿易業務を開始する
株式会社神戸製鋼所 長府製造所と取引開始。
-
1977年
トヨタ自動車工業株式会社が鋼材の納入に「かんばん方式」を採用
なるべく無駄をなくし、必要なときに必要なものが手に入る環境を構築。また、かんばん方式を採用することにより、材料の供給状態を目でみやすく・管理しやすくする目的も同時に果たした。トヨタの現在の厳格な生産体制に大きく貢献している。
-
1979年鉞次郎77歳
創業者 鉞次郎逝去
-
1985年
本社に開発部を設ける
射出成型機のスクリューの販売を開始。後に、シリンダーにも着目し、現モールド部門の主力商品となる。また、金型および切削工具等の表面硬化処理に商売チャンスを見出し、現在のコーティング部門の主力商品となる。
-
1986年
株式会社碧南サービスセンター 完成
愛知県碧南市に株式会社碧南サービスセンターをつくる。2005年には、加工部門を強化・分社化し、現在の株式会社碧南プロセッシングセンターを設立する。
-
1988年 11月
2代目社長の浅井睦也氏 藍綬褒章を受章
藍綬褒章 受章(昭和63年11月3日)
褒章の記(昭和63年11月3日)
藍綬褒章 伝達式 通商産業省にて(昭和63年11月24日)
-
1989年
2代目社長の浅井睦也氏の逝去
1990 年
-
1992年
幾多の増資を経て、資本金が現在の7億円となる
-
1993年
「スライドアームラック」1号機完成
自社製品の開発
1997年:商標登録、2001年:特許取得済み多品種少量の鋼材や非鉄金属など保管管理の難しいモノでも工場・倉庫の省スペースにて材料を保管できる簡易型立体在庫システム。金剛株式会社と共同開発を行った。
-
1995年
阪神・淡路大震災が発生
阪神・淡路大震災が発生し、当社の主要仕入先である株式会社神戸製鋼所も被害を受け、2ヶ月半供給がストップ。代替材をバックアップ材と称して他社より仕入れ、取引先への納入を続けた。また、株式会社神戸製鋼所へは災害物資を提供し、共に復興のため協力した。
-
1998年
ASAI THAI CO., LTD. 設立
タイ バンコクに現地法人を設立。東南アジア圏の日系メーカーへ日本国内と同じ条件で材料を供給できるよう、海外進出を始める。
-
1999年
6.29豪雨災害
株式会社神戸製鋼所 長府製造所が水害にあい、アルミ製品の倉庫が水没。工場の立て直しが急務であった神戸製鋼所の代わりに交代で出向き、納期調整を行った。
2000 年
-
2000年
9.12東海豪雨
国内の経済的被害は2700億円を超える。当社も、主力ユーザーへの供給に支障をきたした。
-
2002年
睦也の息子浅井英裕(元役員)逝去により、
オーナー企業でなくなる創業以来同族経営が続いてきたが、その体制はこの年で終焉。それ以来、社員より社長が選ばれる非同族会社となる。
-
2002年
株式会社昭和製作所を子会社化
機械加工や鋳物加工を行っていた株式会社昭和製作所を買収し、浅井産業のグループ会社とする。後の、浅井ショーワ株式会社となる。
-
2002年
ISO14001の認証を取得
環境負荷を軽減し、環境に配慮した活動を行う企業として認定される。後に、顧客満足度の更なる追求のため、グループ会社では、国際標準化機構の品質規格 ISO9001も取得し、環境に対する継続的な改善に取り組んでいる。
-
2005年
株式会社碧南プロセッシングセンター 設立
鋼材の精密切断拠点として愛知県碧南市にグループ会社を設立する。
-
2011年
株式会社テックイトウを子会社化
鍛造、熱処理、機械加工を行っていた鍛工会社を追加出資により取得し、浅井産業のグループ会社とする。1987年には、熱処理を含め、一部鍛造より機械加工完成品までの一貫加工ラインを完成させた。後の浅井フォージ株式会社となる。
-
2011年
東日本大震災
日野自動車株式会社が当社グループ会社の浅井ショーワ株式会社 本社工場(福島県白河市)に訪問し、被災後の再建に多大な尽力を発揮した。
-
2012年
PT. ASAI INDONESIA 設立
アジアビジネス拠点の1つとして、AIを設立。
-
2014年
PT. ASP INDONESIA 設立
金属加工を行うメーカーをインドネシア拠点に設立。材料の輸出入を行うだけでなく、現地で加工を行えるようになり、お客様への提案の幅が拡がった。
-
2017年8月
横浜テクニカルセンター 稼働開始
コーティングメーカーとして、オリジナルPVD成膜事業を開始。
横浜テクニカルセンターを横浜市港北区に設立。 -
2017年12月
碧南プロセッシングセンター第2工場 稼働開始
アルミ押出材の精密切断加工に着手する。
-
2018年12月
株式会社テクノカットを子会社化
北関東における鋼材の物流及び精密切断の拠点として株式会社テクノカット(群馬県佐波郡)をグループ会社に迎える。
-
2019年5月
本社を移転
東京本社を港区港南2丁目から港区芝浦4丁目へ移転する。
-
2020年~
新型コロナウィルス感染症の流行
2019年に発生した新型コロナウイルス感染症は、2020年に入ってから世界中で感染が拡大し、2022年8月までに感染者数は累計6億人を超え、世界的流行(パンデミック)をもたらす。
-
2021年7月
東京五輪開幕、史上初1年延期
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、2020年7月に開幕を予定していた東京五輪が1年延期される。
-
2022年4月
創業100周年を迎える。
浅井産業株式会社は創業100周年を迎える。
-
2022年4月
浅井産業株式会社の企業ロゴをリニューアル
-
2022年9月
白河バープレシジョン株式会社を子会社化
建設機械向けを主力に鋼材の旋盤加工を行う
白河バープレシジョン株式会社をグループ会社に迎える。 -
2023年9月
田戸サービスセンターが完成
鋼材物流の能力拡張と、電子部品や樹脂成形機部品の保管を担う物流拠点を愛知県高浜市に新設する。
-
2024年1月1日
インドネシア現地法人2社の合併
PT. ASP INDONESIAが PT. ASAI INDONESIAを吸収合併し
インドネシア事業を1社体制とする。 -
2024年7月
共進精機株式会社を子会社化
射出成形機及び押出機のスクリュ・シリンダーの製作を行う
共進精機株式会社をグループ会社に迎える。